緊急事態宣言が延長されたことでまた子供たちとの夏休みが長引きました。
さすがに娘は学校に行きたいと言い出したので、
「登校日」なるものを一緒に考えて来週から週2日程度の登校になります。
まあね、娘はね、何とか自分でできることも多いからいいんだけどね・・・・
5歳の息子は、もともとめっちゃマイペースな子なので
保育園より家でまったりが大好き♡

ずーーーーっと絵描いてるか、ゲームしたり、おもちゃで遊んでて
いざ保育園となって行けるか?というのも10月以降の課題。
(すぐ運動会あるぞ)
ただ、私たちの魂は「学校」とか「保育園」とか「仕事」
はたまた「社会」「常識」なんて縛りはもちろんないわけだから
どこにいても、何をしていても心地よさや、安心を得れていれば
その「場所」や「状態」に縛り上げなくても【魂のまま】いることができる。
逆に言うと、何かに縛られていないとしても
心地よさや安心がなければ【魂のまま】いることはできない。
どれだけお金を持っていても、
羨ましがられるような美貌や
環境が整っていても
【魂】が求めているものはそれではない
誰もが求めてしまうモノには、【魂的価値】は一切ない。
だけれどほとんどの人はそれらを手に入れようと必死になる。
必死になればなるほど、魂が抜けていくことを知らない
手に入れば入るほど、自分の価値が上がっていくと信じている。
2歳から大人たちと仕事をしてきた私が見てきたものは
バブル→バブル崩壊→超不景気(氷河期)→コロナという時間軸の中で
それらの価値を高めると信じられてきたものを追ってきた大人たちの末路である。
破産、高跳び、自〇、失踪。
追えば追うほど魂は抜けていく。

もちろん生きていく上で一定数必要なモノもあることは承知だが
追い続ければ追い続けるほど、【魂】が向かう方向とは反対へ行く。
「あればあるほどいい」か?
結果としての破産、高跳びetcにジャッジしているわけではなく
それらのモノは適切に必要であって、過剰に必要なものではないということ。
では、自分にとっての「適切」はどれくらいか?ということを
まず知ることが重要なのだと思う。
心地よく、安心できるのに「いくら必要なのか」ということ。
そうすれば、案外私たちは「今あるもの」で満足できることに氣づくはずだ。
