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【究極の生き方】他力本願の本当の意味

「完全」である魂は「不完全」を体験するために人間を選んだ
「不完全」とは分離すること。
つまり、
「自分」と「他」が在ること。
そして、
この世界は「自分」と「自分を知るための他」に分かれた。
すべては、自分を知るために存在する世界。
すべては、自分のためにある。
すべては、自分のためにある。
それって、傲慢じゃね?真顔

それって、自己中じゃね?真顔


えーっと…


そして、
私たちは「完全」であってはいけない。
なぜなら「不完全」でなければ、
「完全」な魂の世界から
わざわざ地球に体験をしにきた意味がないからだ。
だから、こんなにも人間は愚かである。
すべては、こんな愚かな自分のために
存在している。
すべては、こんな愚かな自分のために
存在している。
それって、
傲慢…じゃね?


それって、
自己中…じゃね?
いや、
この上なく
有難いことなんです。

そして、
「生きる」神秘がそこにあるということなんです。
この考え方が実は
「他力本願」の本当の意味。
⬇⬇⬇
親鸞聖人が行き着いた他力本願。
修行のため山に篭って20年、
下りてきて初めの言葉が
「ムリだわ~」
”親鸞さん、私念仏唱えても救われた氣がしないし、浄土に早く行きたいとも終わり思わないんです。おかしいでしょうか?”と
相談されたら
「俺もだわ~」と言った親鸞聖人。
あんた、好きだわ。ニヤニヤ


うん、人間らしいって最高。笑
そんな親鸞聖人、
ある時氣づいた。
「これって、煩悩だよね?」
「ずっと煩悩を消しさろうとして修行して、それでみんなを救えると思ってた」
 「でも、煩悩は消えないし、みんなも救えない」
「だけどさ、阿弥陀如来は俺に言ったよ」
煩悩だらけの人間たちよ。
「確かに、阿弥陀如来はご存知だった」
「人間は煩悩だらけだ、と」
「ということは、人間には煩悩があって当たり前だということではないか?」
「あぁ、こんな煩悩だらけのクソな人間に生を授けてくれた」
「この世界を与えてくれた」
「なんと有難いことであろう。なんとかたじけないことであろう。」
「授かったこの生を、有難く生きないとな」
これが他力本願の意味です。
つまり、
他力とは阿弥陀如来のことを言います。
そして、本願とは
阿弥陀如来の本当の願い。
煩悩だらけの人間がこの世界を
「生きる」こと

それこそが阿弥陀如来の本当の願い。



他力本願で生きるとは、
煩悩だらけなのに”生きている”神秘
阿弥陀如来の本当の願いに氣づき
そのメッセージを受け取りながら
有難く味わいながら生きる
ということです。


そして、TOMO風にいうと

クソで愚かな私だけど
私たちは”生きている”
それは神秘だ
宇宙と魂の声に氣づき
自分をおっぴろげて生きる
ということです。

まだいろいろ書きたいことはありますが、
まず動画を観てみてください♡

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