話せば分かるし、
話さなければ分からない。
親子喧嘩でも、パートナー同士でも勝ち負け・ジャッジ関係なく素直に話せば
分かり合える時は多い。
逆に、「素直に話すこと」が頻繁に無かった家庭に育つと
どうやって「素直」に「話すこと」をやればいいのかさえ分からないので
余計に素直に話せない。
だから、分かり合えない。
分かり合えない、前提
そもそも私たちには、「差」があって
その差を楽しむ(味わう)ために来ているのだから
「分かり合えない」が前提であるはず。
だからこそ、「分かり合える」という体験をし、そこに喜びを感じる。
でも、そこには
数々のコミュニケーションが存在し
それらが面倒くさくない人たちだけが
うまく関係を紡いでいける。
逆に面倒くさい人たちは、
力を使ってコントロールしようとするから(時に暴力や圧力など)
余計に面倒くさくなっている。(笑)
「素直」に「話せない」文化
素直に話せないことが、上下関係や親子関係など様々な関係性において文化として浸透してしまっているところがある。
しかも、厄介なのが
それらの文化に正当性を私達自身が感じていることだ。
素直に話せない場所に居場所はない
家庭でも、学校でも、仕事場でも
その場所関係なく
自分が素直に話せない場所には居場所はない。
小学生の自殺が相次いで起こっている。
少し前にうちの近くの小学生も飛び降りた。
私自身、選択の結果にはジャッジはないにしろ
その原因となる「素直」に「話せない」ことにより居場所を失ってしまうことにとても懸念がある。
楽しく学校に行くことがいいこと
もちろん楽しく学校にいくことはいい事だと思う。
だけれど、その思考の裏には「楽しく学校に行けないこと」はダメだという考えが同時に存在する。
「学校は行っても行かなくてもいい」
「楽しくないなら行かなくてもいい」
というのは、今の日本において
あまり受け入れられない。
世の中の常識として、「学校に行くべき」というものが浸透しているからこそ
そもそも論としての学校に行きたいかなど「素直」に「話す」ことが成されず、結果として
どこにも居場所が無くなってしまう。
学校に行かなくてもいい
ましてや、親が子供に「素直」にそんなことを言ってしまったら「学校に行かなくなってしまうんじゃ…」と思ってしまうのが普通だろう。
「学校に行かなくなってしまうんじゃ…」
学校に行かなければバカになる?生きていけない?幸せになんかなれない?
この思考のクセは、
「〇〇がなければ幸せじゃない」
「〇〇でなければ私はダメだ」
という終着点を生み出す。
何かに属していないとダメになってしまう、幸せではなくなるという不安感が常にモノ・存在・場所を変えながら一生付きまとう。
魂と「素直」に「話すこと」
肉体と魂との差を感じられるのがこの世の中でもある。
だからこそ、一体になったときに喜びを感じる。
魂と素直に会話すれば、分かり合える。
逆に、素直に話せなければ自分の居場所はない。
自分の中に自分の「居場所」があることがどれだけ心強いだろう。
それは、家庭であろうと学校であろうと職場であろうと関係ない。
今、自分の中に居場所は作れる。
それは学校に行くよりも
誰かに認められるより
お金を稼ぐより
絶対的価値がある。
分かり合えない前提だからこそ、
素直であることが出来る。
魂と肉体とを繋ぐものは
「素直に会話する」ことなのだ。